昭和47年6月1日 朝の御理解
                     中村良一
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて、静かに願え。」



信心も、段々進んでくる。まぁ、素人とか玄人とかという事はないでしょうけれども。信心の、玄人に対する御理解のように思いますですね。けども、お互いが、どうでも、あの玄人にならなければいけません。玄人という事は、あの、金光様の先生という事じゃありませんよね。金光様の信心でも、程度の低いのもありますし、それで、ご信者さんでも、大変お徳を受けて、おかげを受けておる方がありますから、ね。信心が、玄人というかね、上達するとでも申しましょうかね。信心が、段々、上達した人に対しての、これは御理解だと。例えば、神様に、じかに、お伺いでもして見ろうという様な、お伺いをする時にも、とりわけ、お伺いをする時には、平気でなければならんという様な風に教えておられます。ですから、私は、そういう神様に御神意を伺うと言ったような、まぁ、信心が上達した人に対してではなくて、ここんところの御理解を、誰でもが、頂かなければならないと、知っておかなければならない。分からせて貰わなければならないと言う様な、まぁ、この九十八節は、そういう見解で、まぁ、聞いてもらいたいと思う。
これは、金光様のご信心にならせてもらいますと、どげん異常がありますかと、先ず、みんなが聞きます。まぁ、どげんち言うちからちて、もう、自分が人に物言うように、まぁ、拝みなさいと。なら、拍手は四つ打って、まぁ、こうして、自分の思う通りの事を、神様に、人にものを言うように拝みなさいと。それで、まぁ、一つ、天地書附だけは覚えなさい。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと仰るから、この事だけは、一生懸命、繰り返し繰り返し、拝む時に、と言うて、その、大体、天地書附のいわれとか、天地書附の内容を、まぁ、お伝えするわけであります。ね。金光様のご信心はもう、これを唱えときゃ、と言うのですから、あの、結局、心は神信心の定規と、こう仰るのは、いわゆる、心と、それは、どうもなくてもですよ、ね。いわゆる平穏無事、平穏無事の時には、誰だって、心落ち着いて静かでありますよね。けれども、願えと仰るからには、やはり、聞いてもらわにゃいけんのです。ね。
ですからその、平穏無事で、心の中に波風がないと言う、そういう事だけではないのです。平気でなければならない。落ち着いて静かに願え。ですから、実をいうたら、落ち着かれない。実をいうたら、いらいらしよる。するような、例えば、事があってもです。ね。落ち着けれるおかげを頂いておかなければならない。そのために、なら、日頃、いわゆる、和賀心、和賀心という、ね。自分の心が、本当に、信心によって、和らいでおる、または、喜びとは、祝い喜ぶような心と仰るような心、ね。いわゆる、その、これは、心は、神信心のと仰るけれども、和賀心は、どうなっておるのかという事なんです。心はと言うのはね。ここでは、だから、今、あなたの和賀心は、どうなっておるのかというのである。和賀心。いわゆる、和らぎ喜ぶ心は、どのような調子になっておるかという事。ね。でないとですね、落ち着いて、どんなに落ち着いて願っても、おかげにならんのです。ね。何でもない時には、みんなが、落ち着いてますよ、平穏無事の時には、本当に、ま、自分の心は、まぁ、これが平生心だろうかと思うごとあるです。波風も立ちません。ね。
ですから、そういう事ではなくて、信心の、いわゆる、心と、ここで仰るのは、一番初めに、いわば、教えられるところの和賀心。そして、これは、金光様のご信心の、一番最後まで、このことに精進するわけなんですよね。金光様の、いわば、一番初めから、和賀心が説かれて、そして、それを、いよいよ、自分のものにする事のためにです。まぁ、一生がかりで、この和賀心に取り組むわけなんです。ですから、果たして、自分の、いわゆる、和賀心が、どのような状態であるのかと、確かめなければなりません。ね。その、和賀心の状態がです。自分の心の中に、例えば、どのような場合であっても、そのような状態であらなければならない。そこんところに、定規が合わせられなければならない。
心は、信心の定規じゃによって。いわゆる、和賀心は、金光様のご信心の定規だという事なんです。ね。こりゃもう、はっきり、してるわけです。金光様のご信心ですよ。他所の信心は知らん。けど、金光様のご信心は、和賀心の調子と言うものが、どのような状態にあるかという事。ね。あぁ、これが、まぁ、ね。本当なものじゃないにしましても、真に、御道の信心によって頂かせて貰う和賀心だと、いわゆる、その心が、平生心であると同時に、ね。それならば、落ち着いて願える。それならば、絶対、神様に通うとじゃん。願えと仰る。通じるです。ね。
昨日は、三十一日、月末の御祈念の後に、一月中のお礼を申し上げさせてもらって、昨日は、まぁ、普通お参りをして来ない者でも、みんな、お参りをしてきて、あの、御神前で、ここでもう、輪を書いて、そして、一時間あまり、必ずあの、いわゆる、信話会があります。一月の事の、そのお礼心を込めて、信話会を、言うならば、親様の前で、子供達が集まって、本当に、今月もおかげ頂いたが、来月もまた、おかげを受けなければならない。おかげを受けねばならないという事はです。どういうような信心になったら、親様が喜んで下さるじゃろうかと、例えば、そういう話し合いをする。どういう心の状態になったら、神様は喜んで、・・・。もう、私は、神様のお喜びと言うのは、子供達が集まってね。例えば、ほんなら、その親の、例えば、八十八なら八十八のお祝いがあるとしましょうか。それで、子供達が、兄妹、みんな集まって、今度、八十八のお祝いに、どげなものさせてもらおうかと、色々その、話し合いをするようなものじゃなかろうかと思うですね。これを、神様が、お喜びにならない筈がない。ま、そういう、毎月、月末の日に、そういう信話会を致します。
ところが、昨日はもう、本当に、前後不覚に休んでしもうて、目が覚めたときには、もう十時なんです。もう、びっくりして飛び起きました。寝とぼけとるもんですから、はっはは、あんまり、それからあの、それが、昨日、夕食の時に、あの、高橋さんが、なんか、舶来のぶどう酒を買って見えとりましたのを、それを昨日、明日、お月次祭にお供えしてからども、頂きゃ良かところえと、私は思うたばってん、もう、口を切ってから、こうやって、栓を抜きよりなさいますもん。だから、頂きだしたところが、なかなか美味しいです。もう、ほとんど、私が一本飲んでしもうとります。ちゃんと、ひっくり返ってしもうてから、あんまり、甘い甘いその、ぶどう酒でしたもんですからね。やっぱ、舶来のですから、良かったです、ね。それで、目が覚めた時には、そんな様な事でございましたから、すぐ、私は、こちらへ出らせて頂いてた。そして、神様にご挨拶をさせて頂いたんですけれども。その、信者控え室が、赤々と電気が点いておりますから、まぁだ、誰かが起きとるとじゃろうかと思うて、行ってみたところが、四五人の方が、まぁ、言うならば、昨日の、その昨夜のお話の後の、まぁだ、余韻がまぁだ、こう、ふすぼっているち言う、まぁ、修行生の方達やら、松村さんたちやら、お話があっとりました。だから、早う、休みなさいよと言うて、私が、御祈念させてもらった。すぐまた、休ませて頂くつもりで。
そしたら、お礼させてもらいよったら、神様からね。今日の締めくくりをしとけと頂いたです。それから、私、御祈念を終わってから、また、参りましてから、いわゆる、締めくくり的な、いわば、また、そこへ、お信心の話があっとる中へ、私も入って、また、色々と信心のお話をさせて頂いた。もう、今日は、おかげ頂いてから、もう、久富繁雄っちゃながあーた、今日は、講師でした。もう、そらもう、ちょっと、親先生がおりなさらんほうが、よっぽど、みんなが、良か話しが出ますばい。もう、野口つぁんのお話、桜井先生のお話なんか、もう本当に、みんなが感動して、そのお話を、まぁ、みんなが、茂さんが、一生懸命、しとるところだったんです。こらほんなら、もう、月末の、あっはは、んにゃ、それこそ、出らんほうが良かかも知れんのと思うくらいです。もう、とても良い、有難いお話を、みんながさせて頂いたと、こう言うのです。ね。それで、ほんなら、そういう話を聞かせて頂いて、その話の、締めくくりをね。私が、させて頂く様な気持ちで、お話をさせて頂きよったら、もう、十二時でした。
そしたら、日田の綾部さんと、武内つぁんとが、ひょろっと、やって見えとりますもん。はぁ、ちょいとその、昨日の朝の御理解じゃないけれども、合楽の場合は、もう、どんなに、まぁ、何て言うですかね。んー、ほんなごて、親先生が、あげなこつ言うたけんでもう、信心やみゅうかち、思うごたるこつがあろうて、皆が。ね。けれども、何とはなしに、神様が、その、前後にです、神様のはっきりした働きを見せて下さるから、お互いの信心が、今日まで続いておるのだと。ね。そらもう、皆さんが、本当に思います。二十何年も、皆さんの信心が続いておられる方達の信心を見ると、途中でもう、本当に、もうこれで、信心がお終いになるのだろうかという様な事もあるけれどもです。けれども、やはり、神様の働きというものが、あまりに、いわゆる、神様のご演出という様なものが、あまりにその、見事だもんですから、ね。そこに、また、信心の力を得て、信心を続けておるというのが、合楽の皆さんの信心の、いわゆる、続いておる、まぁ、所以だと思うのです。ね。まるきり、嘘のような、まるきり、お芝居のような、ね。始めがあり、中があり、そして、最後の、このラストシーンなんかが素晴らしい。合楽の場合は。ね。神様が、こういう様なご都合を。もう、お互いの、色々な問題なんかの時の事を思うてごらんなさいませ。もう本当に、親先生は、あんな事を言いなさる。もう、何時か、原さんじゃないけれども、一番長女の恵子さんが嫁入る時なんか、そうでしたよ。本当、うちは、親先生が、漬け込みござるけん、あげなこつ言わっしゃるち。私が、漬けこんでるならもう、現在の、上野さんところの幸せはありはしません。ね。それが、ほんなら、すぐ、その後に、それが分かってくる。ね。だから、お参りせにゃおられない。ね。
昨夜もそうでした。私が、昨日、三十一日の最後のお礼に、私が、御祈念をさせて貰うて、そして、皆さんと一緒に、お話をしとったら、九時から十時までですから、もう、私は、とっくに休んでおったことだろうと思います。同時に、ほんなら、今、聞かせていただきました、何人かの方達の、素晴らしいお話も、恐らく無かったかも知れません。私が話しておれば。ね。けれども、ほんなら、私が、そういう、例えば、はぁ、御無礼したという事だけれどもです。私の信心の、調子というものは、ひとっつも、狂ってはいなかったなと思うわけです。なるほど、あなた達が、わざわざ、お参りをして見えれる。しかも、十二時ごろです。ここに、私が、お広前におる筈が無いです。ね。末永さんが、膝を叩いてから、はぁ、こげなこつがあるけんじゃったたいのち、まぁ、言うた事でした。それからまた、お話、色々させて頂いてから、大分、遅くなりましたけれどもです。いわゆる、お互いの信心の調子というものがですね。いつも、あっておるかどうかという事なんです、この御理解は。ね。
ですから、心はという事はです。私は、今日、和賀心と、こう申しました。ね。ほら、あんた、ぶどう酒でも飲んでから、一杯機嫌で寝とるけんでもう、いよいよ、和賀心なんです。ね。しかも、そういう、例えば、私を熟睡させて下さる働きの中にもです。神様の、今日は、ゆっくり寝とってから、後から起きれと。もう、十時ごろから起きって、という事では無かったでしょうかね。そういう、例えば、まぁだ、私が、厳密に言うと、色々な事がありました。その、私だけが実感したことは。その、十時から、私が控えで、皆さんに話をしたことの内容にですね。ははぁ、こういう事のために、これが、今日の、いわゆる、五月三十一日の締めくくりであったなと、思わせて頂けるようなです。そういう働きが、そこに起こってくる。ね。だから、ご無礼ではなかったな、やはり、私の信心の、いわゆる、心というものは、いわゆる、和賀心というものは、崩れてはいなかったなと、ね。いわゆる、神様との、私との、調子というものは、乱れてはいなかったなという事になるのです。ですから、和賀心には、必ず、そうしたですね、いわゆる、形に起きてくる、表れてくる、その事態、そのものもです、ね。例えば、間違いなかったという答えが、何時の場合でも出てくるですね。合楽の場合は。ね。
バスに乗ろうと思うたら、そら、行った後じゃった。は、これは間違っとるかなと、例えば、自分の心の調子を改めてみる。ね。そこに、御詫びせんならん事があったり、色々、ありますけれどもです。ところが、一つ遅れたおかげで、災難にもあわなかったといった様な事がありましょうが。その時に、初めて、はぁ、自分の心の調子というものは、乱れていなかったんだな、乱れておっても、そこで、あわせる事が出来ておったんだなという事が分かる。ね。そういう心で願えと言うのであります。ね。
心は、神信心の定規だと。和賀心と。それは、もう、完璧といった様な事は、なかなか、そら、一生がかりで、取り組まねばならないことでございますけれどもです。私共の心が言うなら、何時も和賀心和賀心、和賀心を頂くことのために、一切の精進がなされておるんだと。もう、これでなからにゃいかん、金光様のご信心は。ね。ですから、何時も、自分の心というものが、和賀心に焦点を合わせよう、何時もそこに、定規を置かせて頂こうとしておる。そういう姿勢なんです。和賀心になってしまわなければち言うのじゃありません。いつも、その、和らぎ喜ぶ心に、定規を合わせて行こうと言う心。そういう心がです、ね。いわゆる、神信心の定規じゃと仰る。今、あなたの信心は、どのような調子か。いわゆる、神様と私の信心の、いわば、調子というものが、合うておるかどうかと。ね。言うならば、合楽の時計と、皆さんが持っておる時計が、果たして、合うておるかどうかという事なんです。ね。それで、何時も、いわば、標準時計に合わせていこうという心の上に、ね。心の時計の、いわば、ねじを巻いたり、または、あわせておかなければです。言うならば、安心がいけません。あわせておるから、心が、何時も安心です。いわゆる、平生心なんです。いや、ちょっと、乱れる様な事があっても、あぁっとこう、心を神様に向けると、すぐ、自分の心の中に、はぁ、こりゃ、いらいらするこっじゃ無い。心配することじゃないな。いや、腹を立てること段じゃないなぁという事が、すぐ分かる。そういう意味で、平気な心というのが生れてくる、平気な心で無からなければ、ただ、なーにも無い。平穏無事だから、心が平気であったんだとか。落ち着いておったと言うのは、そりゃ、本当なものじゃないと。ね。そういう、私は、心で、落ち着いて願わせていただく信心。同時にまた、ここにお伺いをする時にあたりますがです。ね。こりゃ、やはり、皆さんでもです。神様にお伺いをする稽古をなさらにゃいけません。はぁ、自分の心の調子が、今日は、いよいよ、有難い。ね。これが、その、祝い喜ぶ、それこそ、赤飯を炊いて、祝うような心と仰るが。そういう心の状態で、ある時などはね、本当に、御神前に向かって、落ち着いて、お伺いをするような稽古をなさることも、また、要るですね。
神様が、心の上に、はっきり教えてくださる。いいや、場合によっては、心の目に移してでも、教えてくださる。場合には、御神事、お声を持って、お答えくださる様な事もある。ね。それが、なら、自分の心が、神様へ向っておる時、しかも、和らぎ喜ぶ心であるような時に、そういう、お伺いの稽古なども、やはり、させていただかなければいけません。ね。自分で、自分の事ぐらいは、お伺いが出来るような信心。言うなら、見しのぎの出来るような信心と言われております。ですから、和賀心にならせて頂くことが楽しみなんだ。はぁ、自分の心が、和賀心になると、神様とお話し合いが出来るんだ。だから、それが楽しみなんだ。ね。お徳を受けていく人達は、みんなそうです。
今日は、九十八節を、心は、と言うのを、ね。金光様のご信心という心というは、和賀心のこと。その、和賀心が、果たして、どのような状態になっておるかと、定規を当てるような気持ちで、日々を過ごさせて頂かなければならない。そこから、生れてくる、平気な心。いわゆる、平生心。そこから生れてくるところの落ち着き。ね。そういう心で、願っていくと言う信心を身に付けていかねばならんですね。どうぞ。